鬼なのかっ?!

会社のビルが建つ前から、そして建ち始めて、完成して引き渡されるまでのプロセスに、初めて関与した。
建築屋でもないのに、なかなかできる経験ではない。ありがたいことだ。
それが本日、一旦終えたのである。

オーナーが居て、設計が居て、建築がいて、設備、電気、警備、カンバン、…多くの業者さんが1つの建物に取り組む。
個々はそれぞれの持ち場で力を発揮すればよいが、全体の流れを束ねる建築屋は大変だ。

しかしその建築屋も、オーナーの意向を第一に優先し、無理難題を言われても全力で取り組んでいる。これだけ聞くと、オーナーがよろしくないように聞こえるが、オーナー自身も希望は言うがビル建設に関わる方々の不利益になるようなことはゴリ押ししない。
昭和だと、「俺が言ってんだから、その通りにしろ!」と誰かが言いそうなイメージもあるが、さすが現代はそんな殿様は居ないのである。
そして、皆さんが皆さんに譲歩しながらも、今日完成したわけだ。

そう言えば、オーナーの意向を100%取り入れない例外が1つある。
それは設計だ。

設計は、その建築物がリアルな自分の作品となるため、ブサイクな状態に仕上がらないように譲らないことが多い。ここで言うブサイクとは、自分の描いたイメージから外れることである。譲らないと言っても、結果がそうなるように上手に導くだけで、断固として譲らない姿勢ではない。
オーナーの意匠感覚を、自分の意匠感覚に染めていく技は、素晴らしい。
一種の洗脳か、或いは魔法だ。
更に素晴らしいことは、予算内に収めなければならないため、抜くことろは抜き、譲れないところは譲らないことが実践できていることだ。
並々ならぬ努力と、センスが必要だ。
美しい、またはカッコいい建物をデザインするだけが設計ではないという事だ。

これまでの流れを思い返してみると、やはり設計は人一倍大変なのだ。
設計自体を自分たちが行うから、設計の段階で法の範囲に収まっているかの確認が絶えずある。
私も同行したが、消防本部に時間を取っていただき、諸々確認しに行ったこともある。
何をどう設計するにしても、いちいち、法の枠があるのだ。
そして出来上がった図面に対して皆さんが取り組むだけなので、設計が済めば、半分は済んだと言っても良いのではないかと思われるほどだ。
だから設計は素晴らしい技術能力の集積であって、設計が無くては建物は立たない。ビルを建設する業者たちの中で一番費用を請求してよいと思った。
私も次ぎ生まれ変われば、そのときは設計士になりたいとも思う。

ビルの建設は、会社の経営にも似ている。
事業計画があり、予算があり、方針があってみんなが活動し、途中で状態をレビューし、修正し、そしてゴールする。

それぞれ重要な役割だが、この話になぞらえると、やはり設計に該当する事業計画は大変重要だ。
起業したての頃、感覚で経営する時代があったかもしれないが、いつしか会社は計画がないと経営が立ち行かなくなる。順調に大きくなっていればの話である。
事業計画は、ビジョンではない。実現可能な成長を練りこんだ実施計画だ。

この事業計画がどれほど緻密’(ちみつ)なのか、曖昧なのかで、企業の成長度合いは大きく変わると思う。企業の成長とは、売り上げや利益だけの話ではない。人の成長も含んでいる。
会社が順調に成長していれば、人も辞めない。人が辞めない会社は健康だ。

厚生労働省に、令和5年の雇用動向調査結果が出ている。この中(概況全体版のPDF参照)に離職率の計算方法が出ているので、自社の離職率を計算してみると良い。
全国と比較して、自社の離職率はどうなのか?
こういうことを定点観測しておくことも「経営」だ。

先ほど建築設計が素晴らし話をしたが、そういえば現場でこんなことがあった。

私:「これ、どうやって施工するんですか?できるんですか??不可能ですよね??設計はどのような施工方法を考えているんでしょう???」

職人さん:「設計は、そんなこと考えてくれちゃいないよ。きっと、『それを考えて施工するのがプロのお前たちだろ!』って、言うんだよ(笑)」

…設計は、鬼だ。

終わりなき旅

「俺、体育会系だから(笑)」

この言葉を自ら発している方は注意されたい。
この言葉は、このように言っているのと等しい
・私は上下関係に厳しい
・私は根性論者である
・私はエゴイストである

体育会系の方の存在を否定ないが、もう笑うしかない。
これが組織において許容される時代は終わっている。
まさにパワハラと呼ばれることに近い。

今日現在は、パリオリンピックが終わり、まもなくパラリンピックだ。
オリンピアンの方々は、当然ながらアスリートである。
だが、アスリートの方々を体育会系と呼ぶと失礼になる可能性がある。
自ら言っている人にはそう呼んでいいかもしれないが、現代には少数派ではなかろうか…

さて。
経営者は自ら判断しなければならない立場。
上司は、部下に決めてもらって最後のハンコだけ押すだけの、そんなラクな仕事ではない。
組織のTop、部署のTopなど、組織を束ねて行く立場の人は、判断基準は自分自身であることが多い。
ここで重要なのは、判断基準は自分であって当然良いのだが、結果を手にするまでのプロセスが間違っている。

人はそれぞれ個性があり、上司も部下も個性がある。
怒りっぽい上司、怒りっぽい部下、マイペースな上司、マイペースな部下。
自分の判断基準にハマってないと、上司が怒り出すとか、部下が怒り出すとか。
この個性の組み合わせはとても多いが、結果のカギを握っているのは上に立つ者に間違いない。
自分の判断基準をクリアさせるために、部下をどう動かすのかは怒号ではない。サムライ社会はもう通用しないのだ。

ではどうすれば良いのか?
それは、「コーチング」と呼ばれるものだ。

コーチングは社会で認知された指導技術で、多くの方がその存在を知っているが、実践できる人は少ない(私の知る限り、限りなく少ない)。
そう、コーチングを教わったにも関わらず、実践できないのである。
なぜそうなのか?の答えは一旦置いといて、コーチングスキルを身に着ければ、「私は体育会系である」などど、部下に脅しをかけなくて良いのである。

福岡で私が知っている、コーチングのトレーニングができるところは、「トイカケル」という会社だ。あ、そうか!今は福岡とか近いとか遠いとか、あまり関係ない時代だった。。w

ここの江口さん(代表取締役でトレーナー)、とても分かり易くこのスキルを身につけさせてくれるはずだが、多くの人が「コーチングを教わったにも関わらず、実践できない」事実は存在するのだ。
この答えは、是非ともコーチングを受講して江口社長に聞いてみてほしい。

コーチングは、家庭でも学校でも通用するらしい。
わが子に、教え子に、そしてダメな亭主にそれを試してみてはどうか?(;^ω^)
いやな顔をしたり、無視したり、叱ったり怒鳴ったりするたびに、理想が岸から離れていく。
望んだ結果を手にするためには、部下ではなく、努力するのは自分なのである。

そして努力をやめた時、あなたの旅は終わる。

愛の夢

バングラデシュの首相が亡命した。

亡命した首相のハシナさん、「絶対的な最高権力者」と紙面ではと書かれていることもあるように、あまり良くない印象がその文字から受け取れる。
反政府運動が抑えきれなくなるほど膨れ上がるからには、それなりのワケがある。。。

そういえば、昨夜見た映画は、「マハラージ
カテゴリーが違えど、似たような話だ。

この話は、宗教上の絶対権力者(マハラージ)が地に堕ちるまで戦ったジャーナリストの話で、事実に基づいて制作されたとされている。

国家、政府、教会、警察、学校、企業、あるいは家族。
組織と呼ばれるところに、必ずこのような話がある。
そして、間違いなく言えることは、そこに愛はない。
大一真央さんに一度聞いてもらわねばならない。

頂点に立つものは、立った時からが本当の価値を生み出すはずなのに、逆へ逆へと進んでいく。
頭が良いのか悪いのかわからないが、人というものは、そうなる傾向がある。

私はこれまで生きてきた中で、何か組織の頂点に立っている人の中に、私が勝手に引いた目線より上にいる御仁は、ほんの一握り。あとは良いことより悪いことのほうがかなり大きく上回っている方ばかりで、「普通の人」だ。

自分の行いが「良くない、やっちゃいけない、悪いこと、魅力が無くなる」など、それに気付いていない場合と、気付いているが「大義の犠牲」と正当化する場合がある。
実は気付いてないというのは、あまりない。これに気付かないほどの人は、何かの頂点には立っていない。
ということは、ほとんどが確信犯という事になる。

どんなに実直でも、どんなに崇高でも、どんなに賢くても、権力の頂上に居れば、それを乱用する。
どこかの会社の社長が、ホントか嘘か、こんなことをいつも言っていた。

「船長は、全ての権限がある。しかしその船長が狂ったとき、副船長だけが船長を解任する権限がある」

正確な言葉尻は覚えてないが、Topが誤った判断をした場合に、それを止める仕組みが船にはあるということらしい。会社にもそれが必要で、複数の取締役を置いて、それに努めているようなことを言われていた…

が、実際には効力は無いのである。
オーナーでも株主でもない人に、何の権限があるというのだw
そして、会社は結構ムチャクチャになってしまった。

客観的に見ると、やはりそこに愛はあるのか?という感じがしてならない。
宗教と関係なくとも、精神論のそれは真理に近い気がする。

何かの組織の頂に立っている御仁、
「そこに愛はあるんか?あーるーんーかー?」(^^;)

伝わらない善意

30代のころ、諸事情のためとても貧乏していた。
とにかく金がない。月末になるとその日食べる米もない。。。

今とは違い、会社員のダブルワークはタブーだったが、こっそり自営業を始めた。

「パソコン教えます」

地域のコミュニティー紙に、2,000円支払って広告を出した。
すると問い合わせがあり、「パソコンを買い替えたいが、相談に乗ってほしい」
電話の主は、60代ぐらいのご婦人。
家が近くだったので、自転車に乗って訪問させていただいた。

市営か県営の団地の1階に住んでおられて、ご婦人は車椅子の一人暮らしだった。
家族はいないが、姪が市内に住んでいると言われた。

自作の名刺をお渡しすると、狭い台所のダイニングテーブルに案内された。
椅子をすすめられたので座って話を聞くと、古いノートパソコンを持ってこられて、
「足が悪いので、趣味のためにパソコンを活用したいのです。」
「ずいぶん前に買ったが、これまではあまり使用せず、長く放置していました。」
「いざ使おうとしたら動作がとても遅く、壊れているんじゃないのかと思うほどです。」
「新しいパソコンは動作も早いようだし、買い替えたいのですが意見を聞かせてほしい。」

と言う。
この頃は、ハードもソフトも技術進歩が目覚ましい時で、Windous系のPCは数年経過するとレジストリが膨れ上がってハードの処理が追い付かなくなり、とても動作が遅くなる。
少し見てみると、電源を入れて立ち上がるまでに、風呂に入って出てこれそうなほど遅い。

私は、買い替えるほうが良いと言う提案をした。
そして、どうやってパソコンを買いに行かれますか?と聞くと、タクシーやバスに乗って梅田のヨドバソカメラへ行くと言われた。

「では、パソコンを購入したら、またご連絡ください。それから色々覚えていきましょう。」
と、一旦は言ったものの、この足の悪いご婦人が車椅子で一人でパソコン売り場まで行って、店員の説明を受けながら適切な判断ができるのか?販売員の言われるままに使いもしない機能盛りだくさんの高価なPCを買わされるのではないか?と、心配がよぎって、「私も一緒に行かせていただきましょうか?」と提案したら、大変恐縮されたが「助かります」と喜んでいただき、日時を決めてその日は家に帰った。

そしてその翌日、携帯が鳴った。

電話口のご婦人から言われた言葉は、
「あの、もう、結構です。もう来ないでください。」

「どうかされたんですか?」

姪御さんに電話したら、怪しすぎるって猛反対されたらしい。
私は家が近所で住所も電話番号も本名も書いた名刺を渡したが、客観的に、そんな親切な人は怪しすぎる。そうだ、ここは大阪だった。
このことを瞬時に頭の中で理解できたために、
「それはとても残念です。何かお力になれることがありましたら、またご連絡ください」

と言って、電話を切った。
涙が出てきた。
今思い出しても涙が出る。

お金が必要だから始めたことだったけど、実際は困った人を目の当たりにすると、金のためではなくなる。しかし、善意は悪意として疑われる。
せめてもの救いは、姪御さんと私が会った後に言われたのなら、私は悪い奴に見える証明という事になるが、そうではない。セーフだ!
人は会って話をすると、誤解は少ないと思われる。
※凄いペテン師は、会って人を惑わす。私はこういう人を知っているので、実際にいる。気を付けて欲しい。

今の私は独立して、最初の問い合わせはメールで頂きますが、遠くても必ずお会いして話をしたいと思います。

米騒動にて

米が値上がりしている。
とても暑い夏に、こういう状況は暑くるしい。

インバウンド需要により、在庫がひっ迫しているだとか…
少々需要が高まったからと言って、米が無くなるわけではない。
「無くなるのでは??」という心理がこのような状況を作っている。
ともかく、庶民は米の値段が上がるのは勘弁してほしいところだ。

米と言えば、忘れもしない出来事があった。
昔、大阪の淀川区に住んでいたころのことだ。
家の近くに「藤井米穀店」というお米屋さんがあった。

ここにはじめてお米を買いに行ったとき、HPにも出ている3代目の藤井博章さんという方が、小さなノートを持って近付いてきた。
このご主人が言われたのは、
毎日毎日、幾通りもの米の組み合わせを行って、どの比率がどういう味になるのか記録している。ウチはこのデータをもとに販売している。ウチのコメは抜群に旨い!
と言って、そのノートにびっしり書かれている組み合わせデータをチラと見せてくれた。
何という企業努力!人知れず毎日こんな努力をしているなんて…ぐうたらの私には真似できない。

30代の私が、この時初めて知ったことは「ブレンド」という定義。
コシヒカリ、アキタコマチなどなど、コメの品種はたくさんあるが、その味の違いで米を買って食べていた。しかし、ここはブレンド米…なんだ、ブレンド?

聞きなれた「ブレンド」は、コーヒーだ。
キリマンジャロ、モカ、グァテマラなどなど、種類が多くあり、それらに味の違いがあることは誰もが知ることである。コレは米も一緒。余ったり粗悪な豆をごちゃ混ぜにして売ってるのかな?と、そのような根拠のない間違った定義を持っていた。

もう一つ例を出すと香水。
私は以前、アロマテラピーブレンドデザイナーという資格を取った(現在はもう捨てた)。
このときに勉強したのは、香りの素材は組み合すことで別の香りになること。
いろんな香水や香りは、ブレンドから生まれるのである。

さて元に戻ると、米のブレンド。
これも同じ話で、単一の素材よりも、組み合わせ次第で更に旨い別の米へと昇格する。
確かにブレンド凄し。
余談だが、ブレンドの本質を知って以降、私はコーヒーは基本、ブレンドしか飲まない。
ブレンドには、比率を考えた人の努力が詰まっている。

私は大阪を離れ、この藤井米穀店から米を買うことがなくなったが、米の話題でこの店を思い出した。関西圏の方は、是非とも食べてみてほしい。

ここのご主人から学んだことがもう一つある。
ブレンド米がいくつか並んでいて、なぜか価格に差がある。

 私 「この値段の差は何ですか?」

 主人「あ~それ。。コシヒカリの割合が多いと高くなるw」

……。(@_@;)

どれも旨いなら安いほうが良いはずなのに、あえてコシヒカリの割合に差をつけて価格に差をつけた販売戦略。
ウムム…人の良さも垣間見える…

私も、この無作為な戦術を身に着けたいものだ。
あ、ぐうたらだから、その土俵には上がれないかも(-_-;)

秋は来ない

はて?
秋の虫が鳴いていない。

8月の9日、墓掃除のため一泊で南阿蘇に赴いた。
通常の今頃は、夜は虫の声がうるさくて眠れないほどなのだが…
ほとんど鳴いてない。

標高が7~800mほどある場所なので、夏といえども日中の日陰は涼しく、夜は寒いほどだ。
のはずが、夜もムシムシ暑い…
仕方なくこの日はエアコンを付けて寝たが、このあたりの家にはエアコンなど付いてない。
ウチになぜエアコンが付いているかというと、家のアチコチぼろになってきて、網戸を閉めても隙間ができてしまう。このため、夜に窓を開けていると家の明かりをめがけて虫が大量に入ってきて、大騒ぎになる。本当は窓を開けていると冷ややかな風が入ってきて涼しい夜を過ごせるのだが、窓を締めて過ごさねばならないため、4年ほど前に取り付けた。
まあそれはどうでもよい話だった。

虫が鳴かないのは今年の夏が暑いからなのか?
福岡の自宅に戻って夜の道を歩いてみたが、コチラもほぼ鳴いてない。
家の付近(福岡市内)は虫が住める場所がそんなに多くないが、それでも今頃にはそれなりの虫が鳴いていた。

ネットで調べてみると、やはり気温との関係があるようだ。
しかもどうやら、鳴いてないのは今年に限ってではないようで、「近年」そうらしい。
これまで秋の虫の音に耳を澄ますことが無かったのか、私が気付いてないだけらしい。
確かに、ずっと心が休まらない日々を過ごしていたかもしれない。

そういえば、20年ほど前、大阪市内に住んでいたころの話。
仕事を終え、地下鉄を降りて家路へ。
すると、ビルの一角から虫の音が。「ギィ~ッ ギィ~ッ」

やあ、こんな都会の一角にも秋の知らせが来るとは風情がある。
何の虫かな?近寄ってみよう。。。

するとその音は、老朽化したエアコン室外機のきしむ音だった。

「ガーン!」

世界中スポーツ推進

柔道の阿部兄妹がTVのインタビューに答えていた。

妹の阿部詩さん。
現在24歳の若さにして、「柔軟性を持った人間に成長したい」と言った。

ハッとして思ったことがいくつか…
1. 私が24歳の時、そんなこと言えただろうか?
2. ブルースリーの『ドラゴン怒りの鉄拳』という映画の中で、「武道は人と闘うためにあるのではない。自分を磨くためにある」というセリフ(記憶ではそのような文言でした)。

最初の件。
ずいぶんお爺さんに近付いてきた私は、果たして柔軟性を持った人間に近いのか?
これは参った。
誰ともこの話をしてないが、既に恥ずかしい。。。

次の件。
スポーツの中で、闘って頂点に立つという前に、そのような意識を持ちながら日々精進している競技は、武道以外にあるのか?
後付けならあると思われるが、まず自分と向き合うためだと言い切る。すごい。
すごいのは、この自分に向けられた視線の目的は、自分の幸福のためではないという事だ。
人を傷つけないとか、人を守るとか、そのようなことのために自分を磨くのである。

ストレスの多い現代。
自分が楽になるために、自分へのご褒美、自分が、自分が…と、意味が少し違う。

また、卓球の早田ひなさんが接戦を制して銅メダルに。
この銅メダルが決まる瞬間の映像が、ニュースで流れる。
決まった瞬間、早田ひなさんはしゃがみこんで、涙を流す。
たったこの数秒の映像を見ただけで、私も涙を流す。
早田さんの苦労や手の痛みなど何も考えてないし、そしてわからないのに、人が涙を流しているのを見るだけで、涙がでる。

本来、人にはこの私のような感情が備わっていて、考える前に感情が同期する気がする。
そして、この同期は幸福な方面にだけに反応するようだ。
例えばニュースの映像で誰かが怒鳴っていても、同じように怒鳴りたくならない。
しかし理不尽に動物を虐待する人を見ると、怒りが沸く。許せん!仲良くしてあげて。

こういうことは平和ボケと言われることなのかもしれないとも思う。
なぜなら、こんなに文明が発展した今この瞬間にも、世界で戦争やら紛争やら起きている。
人が無差別に人を傷つけるなんて。

そこへ行きつく方程式が理解できない。

このオリンピックを境に、スポーツは、「その根底に人を大切にする気持ちがあってこそ」だと思う気持ちが強くなった。スポーツマンは是非そうであってほしい。

そうだ、ウチのカミさんも、何かスポーツに打ち込んでくれないかなぁ…w

クサい損

昼過ぎの炎天下、住宅街の横断歩道の横に軽自動車が斜めに停車している。
ん?
その横をゆっくり通過しようとしたところ、車の根元に人が倒れていて、若い女性がその横で携帯を手に電話している。
ん-っ!

「事故だ!」

私は20メートルほど先に車を寄せ、駆け寄った。
「救急車は呼びましたかっ?」
「はい、いま電話しました」

仰向けに倒れているのは60~70代短髪の男性で、買い物用の手押し車だと思われるものが一緒に倒れている。

ここは住宅街にあるスーパーから出たところの横断歩道で、渡った先には古い市営か県営の団地が並んでいる。
男性はスーパーで買い物をした後、団地にある自宅へ戻る最中だったと容易に想像できた。
実は私もこのスーパーに来ていた。横の花屋さんで自宅用の榊(さかき)を買って、スーパーの駐車場を出たそのときだったので、周囲が良く見えた。

倒れている男性には強い夏の日差しが全身に降り注いでいて、ピクリとも動かない。

『暑いだろうな。。。』

真横に新しく建て替え中の団地の工事現場があり、赤い旗を握ったガードマンが出てきて近寄った。その横には配達中の郵便局員がバイクから降りて立っている。
そこに私が駆け寄って、現場には電話している女性と外野3人と倒れた男性の5名。

印象的だったのは、その横を何台もの車が徐行しながら覗き込みながら通過していく。

『まあ、そうなるかな。。。』

さすがに車と接触したと思われる人を動かすのはまずいかもしれないと思って、近くでよく見てみた。すると、どこにも流血した様子はない。そして、何やら酒臭い。。。

おや?

そのとき男性は「むにゃむにゃ」言い出した。

なんだかよくわからない言葉でむにゃむにゃ言っている。
まるで酔っぱらいが、酔いつぶれて言ってる感じ。。。

あれ?

これは事故なのか?
女性は、酔ってひっくり返ってる爺さんに駆け寄っただけなのかも?

咄嗟に、「あ、意識はありますね」と言って、私はその場を離れた。

今回の真実はわからないけど、客観的に酒を飲んでいるように思われてしまうことで損をするということが他にもあると思う。
はじめて仕事で会う人が酒臭かったら、距離は遠ざかる。
「酒臭い」というのが印象が悪い(-_-;)

他はどうかな。。。
・ニンニク臭い
・汗臭い
・とにかく臭い

ウムム…臭いのはあまり良さそうではない。。。