動物哀歌

クマ被害が過去最高ペースだ。

クマはただ生きているだけで、世界征服をもくろんでいるわけではない。
人のいる地域に来てしまい、動くやつがいるから敵かと思い攻撃しただけのこと。ヒグマの場合は食うつもりだったかもしれないが、それは自然の摂理だ。
野生の動物は生きていくために必死だ。
人間の作物を食い荒らすとか、人間に襲いかかるとか、それ自体は自然のことだから防御するしかない。

さて、どう防御するのか?

一旦視点を変えてみる。
最近、山間の農村に行くと、田や畑に電線が張ってある。イノシシ除けだ。
イノシシは昔から住んでいる野生動物だが、なぜ近年、人里に来るようになったのか?
理由はいくつもあるが、どれも納得できる。

1. 耕作放棄地の増加と人間活動の衰退

  • 高齢化や過疎化により、農地が放棄され、藪や竹林が増加。
  • これらの場所はイノシシにとって隠れやすく、餌も豊富なため、人里との境界が曖昧になっている。

2. 森林環境の変化

  • 昔は焼き畑農業などで山が定期的に手入れされていたが、現在は放置されがち。
  • その結果、竹や雑草が繁茂し、イノシシの餌場として適した環境が山から人里近くまで広がっている。

3. 温暖化による活動期間の延長

  • 冬でも活動する個体が増え、繁殖力も高いため、個体数が増加傾向にある。
  • 気候変動により生息域が拡大し、都市部にも出没するようになった。

4. 人間による餌付けやゴミ管理の不備

  • 生ゴミや農作物の残りなどがイノシシを引き寄せる。
  • 一部地域では餌付けが習慣化し、イノシシが「人里=餌場」と学習してしまう。

5. 狩猟者の減少と保護政策の影響

  • 狩猟人口の減少により、イノシシの個体数管理が難しくなっている。
  • 一時期の保護政策により、絶滅寸前だったイノシシが増加に転じた。

また、昔は山と人里との間に緩衝地帯があり、野生動物は人里に近づきにくい環境があった。この緩衝地帯とは、次のようなものである。

1. 里山(さとやま)

  • 人が管理する雑木林や竹林、薪や炭を取るための森林。
  • 定期的に手入れされていたため、藪が少なく、イノシシが隠れにくい。
  • 人の気配があるため、野生動物が近づきにくい。

2. 畑や果樹園

  • 山と住宅地の間に位置し、農作業が行われていた。
  • 人の活動が多く、イノシシにとってはリスクが高い場所。

3. 水路・用水路・堤防

  • 地形的な障壁となり、イノシシの移動を制限。
  • 人工的な構造物が野生動物の侵入を防ぐ役割を果たす。

4. 集落周辺の空き地や草地

  • 定期的に草刈りされていたため、視界が開けていてイノシシが警戒する。
  • 人の生活圏との境界を明確にしていた。

これらのことを考えると、人の生活圏や生活習慣の変化によって、山と人の生活圏の境界が曖昧になってきたことは十分納得いく話だ。

クマを含め、野生動物が人の生活圏内に近づかないようにするためには、昔の生活環境を取り戻すことが良いかもしれないが、そんなことはかなり難しい。
田舎暮らしをしたい人が増えていると言っても、所詮は雀の涙。この広い日本中を変えてしまうほどには手が届かない。

調べてみたら、こんなのがあった。
日本学術会議という組織が行った公開シンポジウム
「増大する野生動物と人間の軋轢:これからの鳥獣管理と人間社会を考える」

残念なことに、会議の報告については出てないようだ。

日本の暮らしの中で、何か問題があれば解決に向けて話し合う人たちが出てくる。
素晴らしいことだ。
本来は、政治家がこうあってほしい。

身近なところで考えると、住んでいる地域や学校や会社、問題だらけだ。
この問題に対し、不満を抱えているだけで良いのだろうか?
何かできることはないか?
小さくとも集まれば大きな力になる。

そこを良くするのは、あなた自身だ。
もちろん私自身でもある(泣

泥棒組織

まだ私が若者だったころ、父がぽつりとこう言った。

「泥棒しか居ない村に住んだら、その人も泥棒になる」

そのとき、私と父の間で何が話されていたのかは覚えていない。
この言葉の意味もよくわからず、「自分もそうなるのか?」と不安になった記憶だけが残っている。
最近、この言葉を思い出すことが何度かあった。

前にも書いたかもしれないが、「一般的に会社というものは、社長が一番頭が良い」と言われることがある。
その理由はこうだ。

「社長より頭の良い人は、会社を辞めるから」

つまり、社長が一番賢いというのは、あくまで“残った人の中で”という話だ。
社長が決定したことに社員は従うが、それが社会で通用するかどうかは別問題である。

たとえば——
「ウチの会社は残業代を払わない代わりに、ニコニコ手当という聞いたこともない手当が毎月均等に100万円出ます」と言われても、それが残業代の代替であるならば、労働基準法に違反する。
固定残業代制度にも適切な明示と計算根拠が必要であり、単に「払わない」では済まされない。

泥棒の話も、これに近い解釈ができる。
周囲がみんな泥棒だったら、盗む行為が悪いことではなくなる。
恐ろしい話だが、現実にそういうことは起きている。

ある企業では、求人票に「勤務時間:9時〜17時、休憩1時間」と書いてある。
つまり、実労働時間は7時間のはずだ。
ところが、実際に働いている人に聞くと、8時前に出社することが求められ、17時になっても帰れない。
朝早くから家を出て、300kmほど離れた顧客のもとへ車で向かい、商談し、夜遅くに帰ってくる。
もちろん残業代など出ない。
この会社で働いている人は、それが“当たり前”になっているので、大きな不満はないようだ。
だが、新しく入社した人は驚いて、すぐに辞めてしまう。

さて、泥棒しかいない村に、ある日、正直者が引っ越してきた。
この人に残された選択肢は二つしかない。
1. 村を出ていく
2. 泥棒になる

まさか村人全員が改心して、盗みをやめる活動を始めるとは思えない。
正直者は、結局村を出るか、泥棒になるしかないのだ。

新しい組織の中で、常識的におかしなことが行われている場面に遭遇したとき、どうすればよいか?
私は、一秒でも早くそこを抜け出すことを勧めたい。
恐らくそれは、一人の力ではどうしようもないことだからだ。

少し話がそれるが、私が昔勤めた会社に入ったとき、妻が社長夫婦に挨拶する際にこう言った。

「この人は、曲がったことが嫌いな性格ですから…」

言われてみれば確かにそうだ。
上手い表現だと思ったが、実際の意図はこうだった。

人は、人が見ていなければ何をするかわからない生き物だ。
立ちションする酔っ払いも、悪いことだと知っているから人前では堂々としない。
それは自身のジュニアの貧弱さを隠すためではない。
このような人間が、社会の大半を占めている。

私は曲がったことが嫌いな性格なので、たとえば信号待ちを避けるためにコンビニの駐車場を横切るような行為が嫌いだ。
もし会社内で何か曲がったことが発生したら、それに対して意見してしまう。
これが、組織の中で暗黙のうちに認められていた場合、私は組織で孤立してしまう。
このときに、私を助ける“前振り”として、妻はそれを先に伝えていたのだ。
恐れ入る。
さすがカミ(神)さんだ。

正義を振りかざしても、正面突破できることは少ないのが現実だ。
なんて悲しい社会だろう。
それでも、あなたならどうする?
泥棒の村に入ってしまったとき、あなたは——。

時の流れに身を任せ…るな!

向かいの高い石垣の上から、コテツがよく吠えていたが、そういえば近頃声を聞かないな?
顔を覗かせた奥さんが、ひと月前に亡くなったと言った。13歳、肝臓を悪くしていたらしい。
ウチのカボスは、上から吠えられてもいつも何知らぬ顔で通り過ぎていたが、吠え方が激しいので私の方がドキっとさせられていた。しかしもう、その声はない。静かな秋だ。

カボスとの散歩道の途中、取り壊しが始まった家を見ることがある。
あれ、確かこの家は、おじいさんが一人暮らしだったはず。先週も散歩の途中に挨拶をしたが…
その家の跡には空き地が残り、すぐに雑草が生え始めた。

時々顔を会わすアメリカンコッカースパニエル。連れてるはずの飼い主さんが、夫婦だけで散歩していた。12歳で先月亡くなったと言う。

新しい景色が出来ていく前に、今が終わる寂しい時間帯がある。生命の折り返し以降の寂しさは、誰しもできれば味わいたくない。

周りの景色が変わり始めて、時間の経過を認識する。当然私も犬も家も車も、その時間経過を経て今なのだ。先週、車のバッテリー異常のメッセージが出て、あれ?ついこの前交換したよな??と思ったが、もうそれから4年半経っていたのだ。時の流れの速さに気付いてないだけだ。

充実してようがしてなかろうが、とにかく時はどんどん過ぎて行く。

会社員も経営者も、案外速い時の流れを意識してほしい。そのアンテナを張ってないと、気が付くのが遅れ、手遅れに。

会社のように生き物ではない場合、ビジネスが生まれたからと言って必ず死ぬわけではない。衰退期が始まったとしても、やり方次第ではまた息をふきかえす。
しかし衰退期からの復活は中々難易度が高い。難易度が低いうちに計画して衰退しないように務めることが良いが、経営者が気付かないと従業員は去るし、復活もできない。

今何をすべきなのか?

このテーマは、永遠に終わらない。なぜなら、半年後にはまた半年後なりの、「今何をすべきなのか?」があるからだ。
大筋道を付けたら、定点観測し、軌道修正することが必須なのだ。
残念ながら、中小企業のうち、これができている会社は少ないと思う。できていると思っている企業も、従業員は意味がわからないまま事務的にそれをやっているだけで、結局は評価とか給料のためになっている。

生き物の終わりは努力しょうがない。でも会社のそれはいくらでも努力できる。

あなたの会社で努力するのは誰か?
役職は、努力順になっている。
是非とも頑張ってほしい。

秋はまだか?

9月も中旬になり、夏の酷暑も終わりつつある今日この頃。
あきらかに、半月~ひと月ぐらいの夏の長さを感じずにはいられない。
今頃はナツバテの時期でもあるが、それも10月初旬くらいにずれ込むのか?
せっかくの秋が楽しめなくなりそうな温暖化の現代は憂鬱だ。

さて。

最近また、いろんな社長と会う機会があった。
どの社長にも共通して言えるのは、社長はそんなにバカではない。
なんだか失礼な言い方だが、あらためてそう思った。

仮に、会社を継がせる子供がバカだった場合、その社長は子供に会社をなかなか継がせない傾向がある。要は、いつまで経っても社長を続けている年老いた社長は、息子や娘に社長が務まらないとわかっているケース。これはよく見る。
そのことがわかっているだけで、社長はバカではない。

別の話。
自分に自信がある社長は、それが器から溢れてしまっている。
人ができないような努力をし、人がしないような難しいTASKをいくつも走らせる。とても凄いことだ。バカではない。そしてついに、人が自分と同じようにできない場合、その人のことをバカだと思う。そしてついに溢れ出る瞬間、「あいつは頭が悪い」と口に出して言ってしまう。
人を蔑んで、それを人前で口に出したとき、私はその人は頭がいいのか悪いのかわからなくなる。

ものすごくにこやかで、接しやすい社長もいる。
実はこのタイプが一番難しい。とうぜんバカではない。食虫植物のようだ。
そして、いま私は、このタイプを真似ている。
自分が多く語ってしまうと、聞いた人に分析されて私自身が筒抜けになってしまう。
以前はこのタイプだった。そして、人のことをアホ呼ばわりしていた。残念な人間だ。
誰が見ても魅力的ではない。これに気が付いて、自分を抑えている。
周りの人が集まってくる絶対要素は笑顔だ。苦手ながらこれを取り込み、自分のことは多く語らず、相手の話を聞くようにして、落ち着いて、笑顔で、物静かに。

温暖化で毎日暑いし、あ~、とてもストレスになる。。。

私は自分では笑顔が似合わないと思っている。
しかしビジネスには笑顔が必要なのだ。
家を出たとき、まず思いっきり口角を上げる。これで多少笑顔に見える。犬の散歩の途中も、車を降りてコンビニに入る時も、自分が笑顔に近いのか意識している。

努力せずにこれが出来ている人や、素の状態がすでに笑顔に見える人が羨ましい。

日々の技術革新に合わせて、私の努力すべきことは多い。それはそれなりに勉強し続けてはいるものの…、人の接し方、褒め方、笑顔の作り方までやっていると、本当に疲れる。

まあしかし、笑顔ですれ違う多くの人が、それに取り組んでいるのかもしれない。みんな頑張っているのだ。
なんであんな自然な笑顔で歩けるのか、聞いてみたい。
Googleで色々調べていたら、「笑顔は内面の状態を映し出す鏡のようなもの」と出てきた。
ゲゲッ!!
努力は無駄だった…(泣

うちの犬は、人の機嫌を取らないし、不満も言う。
なのに、好かれる。そして飽きも来ない。
さすがにこれは、温暖化は関係なかろう(笑

AI随筆処女作

今年の夏も、夜空に花火が咲いた。だが、例年とは違う。
事故が相次ぎ、打ち上げ筒が暴発し、台船が炎に包まれ、観客が避難する騒ぎとなった。ニュースは「安全管理の不備」「技術者不足」「気象条件の変化」と、原因を並べ立てる。

セイ兵衛は、縁側でその報道を見ながら、麦茶をすすった。

「花火ってのは、人を癒すもんじゃなかったかねぇ…」

空に咲いて、すぐに消える。その儚さが、過去を偲び、未来を願う心を呼び起こす。だが、癒しのはずが、恐怖を生むなら、それは本末転倒だ。

ふと、テレビのチャンネルを変えると、今度は海外のニュース。地球温暖化対策の国際会議が紛糾している。ある先進国が、CO2削減の枠組みから脱退したという。理由は「経済への影響」。セイ兵衛は、眉間にしわを寄せた。

「地球を守るってのも、人を癒すことじゃないのかねぇ…」

森を守る人、海を浄化する人、再生可能エネルギーを開発する人。
彼らは、誰かの未来のために、今日を犠牲にしている。だが、政治や経済の都合で、その努力が踏みにじられることもある。

花火大会も同じだ。伝統を守り、技術を継承し、安全を確保するために、裏方の人々が汗を流している。だが、予算削減、後継者不足、気象の変化…。癒しを届けるはずの人々が、癒されることなく、疲弊している。

セイ兵衛は、縁側から庭を見渡す。夕暮れの空に、遠くで小さな花火が上がった。誰かが誰かのために、願いを込めて打ち上げたのだろう。

「癒しってのは、誰かが願って、誰かが支えて、ようやく届くもんなんだな…」

そして、それを阻むのもまた、人間。

セイ兵衛は、静かにため息をついた。

「人ってのは、癒しを求めながら、癒しを壊す生き物なのかもしれんねぇ…」


今回のは試し書き程度ですが、AIと会話しながら、エッセイを書いてみました。
書いてみたというより、AIが勝手に書きよった(笑
あまりに面白くて掲載しました(爆

今後チョイチョイやってみます(笑

ヒヤリハット

たまたまのこと。
私の部屋にテレビがあって防犯カメラのモニターに使っているが、よほどのことがない限り見ないので、いつも布のカバーを掛けて消している。

たまたま作業に板状のものが必要になり、キョロキョロ探すと…テレビの前に立てかけていたアクリル板があった!
そして、それを手に取ると、何やらとても熱い。ん?
昼間は2Fの部屋の温度が上昇するとはいえ、こんなに熱いのはおかしい。
そしてテレビを触ると、とても高温になっている。アチチー

テレビのカバーを外してみたところ、電源が入って防犯カメラの映像が映っているではないか!
テレビの電源はテレビ上部のボタン式。何かの拍子で押したに違いない…
テレビがついた状態のまま、すっぽり布のカバーをされてる状態だ。
テレビの電源は切って、コンセントも抜いた。

気づかない場合は、火事になってもおかしくない。
普段使わない家電製品のコンセントは抜いておくことが肝要だ。家じゅうのコンセントをチェックした。

ところで最近、モバイルバッテリーの発火が報道される。
これはリチウムイオン電池に限ったことなのか?

私は2Fの窓際の日が良く当たる場所に、ソーラー式のLEDイルミネーションをいくつも置いている。
昼間に勝手に充電し、夜になると窓から外へきれいな光を放つ。暗い夜に疲れて帰る人の癒しになればと数年前から設置している。

バッテリーの発火は、高温になる環境が危険だと聞いた。
ソーラーのバッテリーは大丈夫か??心配になったので、AIに質問してみた。

「最近、モバイルバッテリーの発火がよく報道されるが、これはリチウムイオン電池に限ったことなのか?ニッカドでも危険なのか?ニッケル水素は?それが知りたい。」

まず嬉しかったのは、「とても良い質問ですね」と、AIに褒められた。
最近褒められることがないので、嘘でもうれしい。
人を褒めることを忘れないようにしないと。。。
カミさんも褒めると少しは…
おっと、話を戻そう。
AIの回答は次の通り。

電池の種類発火リスク主な原因備考
リチウムイオン電池高い過充電、物理的損傷、内部短絡、高温モバイルバッテリーやスマホに広く使われる。高エネルギー密度だが、制御が難しい。
ニッカド電池(NiCd)低いがゼロではない過充電、劣化によるガス発生古いタイプ。環境負荷(カドミウム)あり。
ニッケル水素電池(NiMH)比較的低い過充電、密閉型でのガス圧上昇eneloopなどに使われる。安全性は高いが、過充電には注意。

リチウムイオン以外は大丈夫そうだ。

電子タバコを車に置いている人は要注意だ。
私はモバイルルーターを車に置いたままにしているが、この夏から持ち歩くことにした。

火事になったり、燃えたり怪我したりてからでは遅い。
今できることは、リチウムイオン電池が搭載されているものは何か把握し、高温にならないような取り扱いを心がけることだ。

夏は暑いのが当たり前。
しかしそこにあるものは、本当に昔からある安全なものか?。
いち早く危険を察知し、対策を打つ。
仕事と同じである。
夫婦仲も同じかもしれない…w

参政党

参議院選挙が終わった。
参政党がすごい。

「すごいね、参政党!」

知人から、この言葉を何度か聞いた。

次の選挙はもっとすごいと思う。
なぜならば、参政党のことをよく知らない人がまだまだ多いからだ。

そもそも、なぜ自民党が強かったのか?
言わずともわかるが、日本全国、癒着しまくりだ。
大都市圏では、自分の仕事がどの政治家に支えられているかなんてわかりにくいが、地方はそうではない。推しの議員が当選しなければ、明日の仕事が危うい。昭和丸出しの世界だ。
AIも活躍する文明社会のいま、あってはならない話だが、残念ながら人間なんてこんなもんだ。

〇〇先生が敷いてくれた鉄道、道路、港湾、球場、…
これで急成長した昭和の日本。
もうこれはやめましょうよ。と言っても、やめられるわけがない。

真面目に投票に行く中高年は、自民党にコケてもらっては困る人は多くて、政治に興味がない若い人は、正義感が強いわけではなく何にも興味がないだけだ。あ、これは別の問題だった。

今回自民党がコケた理由の一つに、「残念な石破さん」がある。
負けてさらに残念な感じが倍増した。
正義感があるようで、個人的には嫌いではないが、人を束ねる能力は無い。
もう総理は早々に辞めなければ国民のために悪い。

利権にまみれた人たちでさえ自民党離れが起きているから、理路整然と弁をふるう野田民主党は優位だ。…とも言っていられない。なぜなら、「参政党」の出現だ。

みんな、一から政治を国を作ろうよ、その汚れてないきれいな手で。
※これは個人的な見解です

こう言われて、反応しない大人は少ない。
次の衆議院選挙では、自民党はさらに大敗し、参政党は大きく票を伸ばす。
自民党を推していた人は、どうしていいのかわからなくなってくるだろう。

正義とは何だろう?
公平なことが正義か?
自分を推す人を助けることか?

参政党のことをよく調べてみてほしい。
私もまだあと僅かながら生きていると思うので、頑張っているきれいな手を応援したい。

経験は金で買えない

庭のブルーベーリーの木に、雀がむらがっている。
いま、ブルーベーリーは毎日収穫できるほど、実が成っている。

昨年までは、鳥が来ることなんてなかったのになぁ…
そうだ!こうなのかもしれない。
例年ならば、今頃は梅雨のど真ん中。
雨が降り続き、地面からはミミズが出てきて、小鳥のエサは豊富だが今年はどうだ?
異例の速さの梅雨明けで、毎日晴天続きだ。
ミミズはすぐに干からびて、エサが少ないのか?

しかし、小鳥にブルーベーリーの実を食べられても、それほど腹も立たない。
理由はいくつかある。

まず、今年の庭のブルーベリーは、実が小さい。
昨年の冬剪定のとき、剪定が甘くて花がつきすぎた。花芽を残しすぎたのだ。
結果、とても多くの実が成り、実は小さくなった。
大きくて甘い実がついていたら、防鳥対策をしたと思う。
我ながら小さな人間だと思う。
それから、阿蘇で栽培しているブルーベーリーがよく採れた。
一年分のジャムも作れたので、今のところブルーベリーには困っていない。
満腹なので欲が少ないと言うところだ。私は残念な人間なのだ。
そして最後は、鳥も生きている。
何か食べ物が欲しいときは、可能なら分けてあげたい。
嘘っぽい理由だが本当のことだ。信じてくれ。

長年生きると、生きた分だけの経験をする。
今年また経験したのは、実の大きさと木の剪定だ。
梅干を付けるため、阿蘇で栽培している梅の実も採ってきた。
昨年、大きな剪定をした梅の木は、今年大きな実をつけた。
剪定しなかった木は、多くの実をつけたが小さい。
ブルーベリーも同じ話だ。大きな実は誰もが喜ぶ。
大きな実をつけさせるために、木の大きさに合った剪定が重要だということを経験した。

うちでは栽培してないが、福岡では庭にビワの木を植えている家が多い。
しかし、どの家も、ビワの木はほったらかしだ。小さな実がいっぱい成っている。
ビワは木の剪定もそうだが、大きな実を作るために最も重要なのは花の剪定をすることだ。
このことは、普通の人は知らないと思う。
昔ビワを通販したときに、農家の人に教えてもらった。

ビワは花がまとまってたくさん咲くが、その花1つを残してあとは切る。
こうすることで、本来6~7個固まって実がつく予定の場所に1個の実になる。
当然ながら1個の実は大きくなる。リンゴなどもそうだ。5つの花の1つを残してあとは切る。
近所の人に教えてあげたいが、ビワの木が植えてある家の人と仲良しではない。

逆もある。
温州ミカンは、実の剪定をしてはいけない。
剪定すると1つのミカンは大きくなるが、味は水っぽくて不味い。
おいしいミカンは、たわわに成らせる。当然ながら実は小さいが数は多い。
すると酸っぱくて小さいミカンができる。
この酸っぱいミカンを風通しの良い土蔵のような場所で寝かせると、甘いミカンに変身する。
私は小さいミカン以外買わないことにしている。

たまたま作物の話を書いたが、生きているということは仕事も遊びも同じように何かを経験し、身に付いていく。
長く生きた人は経験が長い
若い上司は年配の部下を馬鹿にしたような態度をとることがあるが、一日の長と言うように、その先輩にはあなたには無い経験がある。また、長幼の序という言葉もある。年長者にはそれなりの敬意をもって接してほしい。

それができる人は、人からも敬われるだろう。

石鹸が良いと思います

私は石鹸を自分で作る。マルセイユ石鹸といわれるものだ。
もともとアロマ関係のことで石鹸づくりに出会い、以後自分で石鹸を作って使うようになった。製造のインターバルは、1年~2年に1度。無くなりそうになったら作る感じ。
「作ることが好きな人」に分類されると思われる私は、使うことよりも作るほうが楽しい。

アロマ関係でと書いたが、この流れを説明するには多くの文章が必要になる。よってアロマに行き着く位までの過程は割愛させてもらうが、アロマから連想すれば、石鹸に香りを付けたいと思うのは自然なことだ。

石鹸を作る際に、アロマオイルを入れる。石鹸を使う場面で、理想の香りを楽しみたい。
しかし、そう上手く行かないのである。

石鹸は油が主成分だ。この油がどのようにして石鹸になるのか?
それには「苛性ソーダ」が必要だ。
簡単に作り方を書くと、苛性ソーダに精製水を加える(すると、すごい発熱と異臭で、目がチカチカする。とても危険なので、換気をよくしてから作業すること)。苛性ソーダが溶けた熱湯(水酸化ナトリウム水溶液(100℃に近い))と、油(オリーブオイルやパームオイルなどの混合油)と混ぜ合わせて撹拌し、アロマオイルもれて型に入れて数か月放置する。私は切り分けた後、1年近く寝かす。

ザックリ書くとこれだけだが(実際にはもう少し難しい)、油が苛性ソーダによって石鹸になるワケだから、当然ながらアロマオイル(油)も鹸化するのだ。あの香りはどこへ消えたやら…
それだけではない。
そもそもアロマイルは揮発するから匂いががする。
製造直後から長時間寝かす理由は、石鹸になるための鹸化プロセスでもあり、余分な水分を蒸発させるためでもある。このとき、アロマの香りも消えてなくなる。
アロマオイルは入れても意味がないので、入れないほうが良い。
素人ならなおさら入れないほうが良い。
理由は、アロマオイルは肌から体内に吸収されるため、知識がない人が肌や顔に塗ったり触れたりすると、毒性によって体調子悪くする恐れがある。たとえ毒性がない種類のアロマオイルでも、肌や顔に塗る際の安全な希釈度の目安もあるので、知識がない人はやめといてください。

さて。
言いたかったことは、石鹸の作り方ではない。
ボディーソープを使っていた頃の話である。
あるとき、風呂場で異臭を感じた。
クンクン、クンクンと、その臭いを探していくと、行き着いた先は体を洗うナイロンのタオル。クサっ!
いつも体を洗った後、このタオルもそれなりには洗って、浴場内に干して出るのだが、『洗い方が足りないのか?』と思った。
そして、タオルを入念に洗っていつものように浴場内に干してみたが、翌日は少しクサい。
乾燥が足りないのかと思い、外に干してみたが、やっぱり少しクサい。
最後は殺菌してみた。
すると、3日ほどは匂わなかったが、そのあとはまたクサい。
ナイロンタオルに、何か汚れ(人間の皮脂的な)が残っていて、これに雑菌が繁殖して臭っていると思われる。

待てよ?
昔石鹸を使っていた頃は、こんなこと無かったなぁ。。。

石鹸に変えてみた。
すると、何も臭わなくなった。

なぜ石鹸は皮脂がタオルに残ってないのか?
それとも、タオルに吸着させるような性質ではないのか?
よくわからないが、臭わないということは雑菌も繁殖してなくてクリーンだ。
以後、私は家では石鹸しか使わない。
※ちなみに、キッチンの布巾や台拭きを洗う時も、固形せっけんで洗って干している

石鹸の利用者を調べてみると、日本では年齢が高くなるにつれ利用率は高い。
肌に優しいのは使ってみればわかる。
自分で作るのはヤリすぎかもしれないが、作ることが好きな人にはオススメします。
実際に作るときには、専門的なデータ(油の鹸化価など)が必要になるため、やってみたい人がいるなら相談してください。油の種類ごとの分量と出来上がりの鹸化率を入力すれば、精製水と苛性ソーダの分量が算出できるエクセルを自作したので、差し上げます。

あ、このサイトで入力できるように作ろうかな?
ITとは全く関係ありませんが(笑

仕方ないこと

ご近所さんに、ノラ猫に餌を与える人がいる。
毎朝、その家のお勝手口には数匹のノラ猫が集まって、ニャーニャー鳴いて食事の要求をしている。時にはカラスが来て、エサ入れに残った食べ物を狙っている。

私の家は、以前ノラ猫の糞害に悩まされてきた。
そのうち、ネコがどのような場所に糞をするのかわかってきたので、糞対策も上達した。
最初の頃はとても腹が立って怒りが収まらず、皆殺しじゃぁ~!!と思ったりしたこともあるが、もちろんそんなことはしない。そして今では猫の糞害は全くない。

先日お隣さんが、庭の花壇の土を土嚢袋に詰めていた。積み上げた土嚢袋の数は30ほどある。
「どうされたんですか?」と声をかけた。
すると、ここ数年ネコの糞害に悩まされ続け、土にネコが糞をするので、花壇を潰すらしい。土の上に防獣ネットを敷いてみたが、ネットの上に糞をされて、もうあきらめたと言う。そして言われたのが、「ホラ、あそこの家の人がノラ猫に餌をやっているでしょう?だからネコはこのあたりに住み着いて、ネコを減らす事は無理だし、役所にも行って相談したが、自衛してくださいと言われて何もしてくれないので…」とため息をついた。

私も随分と闘っていたが、遂にはネコはウチで糞をしなくなったことを言ったが、『そうか、隣に被害が移っただけだったのか』と思って、バツが悪かった。

さて。
このお隣さん、土嚢袋に詰めた土をどうしたかと言うと、家の横の小さな空き地に袋ごと積んだ(捨てた)。まあ、土だし…福岡と言えども大都市に比べれば田舎だし、昔の人のこの感覚はそれほど悪いとは思えないのだが、袋ごと捨てるのはマズくない?しかも実はこんな事情がある。

どこもそうだと思うが、、自治会と言うものがある。
私も年間7千円ほど自治会費を納めていて、地域の安全、防犯、衛生活動などに使われている。
また、自治会は、定期的にその区域の清掃や防犯見回りなど行っている。私も当番になれば、拍子木と懐中電灯を持って、夜回りをしている。
隣人が捨てた数十袋の土嚢は、自治会が定期的に清掃活動を行っている小さな空き地だ。
そして問題なのは、隣人は自治会に参加してない。
金も払わないし掃除もしないわけだ。
自治会費を払っている人が地域の人のみんなのために清掃している場所に、自治会費も払わず掃除もしない人が不要な物を捨てる。
現在、土嚢袋は風雨にさらされ、学校帰りの子供が傘の先でつつく。ボロボロに破けて土嚢袋の破片が散乱しているが、捨てた本人は掃除する様子はない。

人間は自分勝手だ。
ノラ猫に餌をやるのも身勝手だし、土と言えどもゴミを公共の場に捨てるのも身勝手だ。
どこかのお爺さんがノラ猫に餌を与えるので、その近所のお婆さんが注意したところ、お爺さんは持っていた杖でお婆さんを殴り殺したという事件があったのを思い出したが、小さな負の連鎖がアチコチで起きている。
ネコに限らず、生き物は地球上に住む権利がある。
それを愛おしいと思うのも理解できるので、ノラ猫を餌付けするのなら、TNR(去勢後に猫の耳カット)するとか、トイレも設置するとか、総合的に面倒を見てあげないと、誰かに迷惑がかかるのだ。

人間だって生き物。その本質は変わらない。
どんなに金持ちでも貧乏でも、まずは自分優先なのだ。
色々、仕方がないことである。


昔、健康食品ネズミ講のエラい人が、私に言った。
「人は自分が幸せでないと、人のことを幸せになってほしいと思わない」
「自分が溢れるほど幸せになれば、大切な人にも幸せになって欲しいと思う」
「だから、まずあなたが溢れるほど儲けてください」
「そうすれば、あなたの大切な人にも儲かってほしいと思うはずだ」

これを言われた20代だった私は、とても悲しくなったことを覚えている。
そして返した言葉は、「私は金儲けするために生きているわけではない」。
詭弁だ(笑

経験からだが、年を取るにつれ、他人の優先順位が上がってくる。
そうではない人も当然いるが、自分のそういう部分は嫌いではない。
ナイショだが、人に言えないような黒い部分も持っているが、自分のそういう部分も嫌いではない(笑