憂鬱

研究と言う仕事は面白そうだ。

新聞には、「人工光合成、世界最大級の実証施設」とか「ウナギ稚魚、丸のみされても胃から脱出」とか、ジャンルを問わず研究成果が出ている。

研究者には私には見えない苦しみがあると思うが、普通のサラリーマンと比べるとはるかに楽な仕事に思えてならない。
通常、生きるために行きたくもない会社へ行き、やりたくもない仕事をし、割に合わない給料で細々暮らすという人は少なくはない。
そこへ来て研究者は、好きなことをやってるだけに思える。そして給料をもらい、場合によってはノーベル賞のような偉業を成し遂げる。

これは隣の芝が青く見えているだけなのか?

人は、好きなことを仕事にできているのか?
好きなことも、仕事にすると嫌いになるんじゃないのか?
好きな人も結婚すると嫌いになるんじゃないのか?
これは角度が違う話だったw

私は「やりたい人」に分類されるタイプで、何でもやってみたい。しかしすぐに飽きる。
飽きずにやり続けている事も色々あるが、これが仕事となるとどうか?
恐らく嫌で仕方なくなる。
もしかしたら、私は仕事になると全て嫌なのかもしれない。とんでもないグウタラだ。

世の中には「サザエさん症候群」という言葉がある。
日曜の夕方になると、明日の仕事が憂鬱になるということであるが、ホラ、やっぱりみんなも仕事は憂鬱なのだ。

最近よく使うが、AIに聞いてみた。なぜ仕事は憂鬱なのか?
このような回答が来た。

  1. 仕事の内容がつまらない:やりがいや成長を感じられないと、仕事が単調で退屈に感じられることがあります1
  2. プレッシャーが大きい:上司からの期待やノルマが厳しいと、精神的な負担が増え、憂鬱になることがあります2
  3. 人間関係の問題:職場の同僚や上司との関係が悪いと、毎日がストレスフルになります2
  4. 長時間労働:残業が多かったり、休みが少なかったりすると、心身ともに疲れが溜まりやすいです1
  5. 通勤のストレス:満員電車や長時間の通勤は、それ自体が大きなストレス要因です2

もし仕事が憂鬱で辛いと感じているなら、まずは自分が何に対して憂鬱を感じているのかを明確にすることが大切です。そして、可能であれば上司や信頼できる同僚に相談したり、休息を取ることも考えてみてください2

まあ…、想像した範囲の回答が来た。

仕事が憂鬱なのは仕方ない。と、するのが良いのか悪いのかは別の機会に考えるとして、その憂鬱さを軽減する方法はあるかもしれない。
例えば楽しみを追加するとか。

あ~、明日も会社に行くのが憂鬱だなあ…
そうだ、帰りに新しくできた映画館へ寄って、映画を見て帰ろう!
とか。
…もはや、仕事ではないw

毎日飽き飽きした仕事の中で、仕事としての楽しみを見つけられるのか?
仮に見つかったとしても、その楽しみは果たして仕事なのか?
ここで1つ正解なのは、「仕事が憂鬱な人は、仕事以外の楽しみを増やす」だと思う。

しかしながら、仕事が憂鬱ではない人はいるのであろうか?

ここで話が変わるが、「波」のようなものに乗って、時間が進んでいる気がする。
いったい何の話かと言うと、「波」というのは強弱のことで、強かったり、弱かったり。
これを判断する基準点によっては、プラスだったりマイナスだったりという話だ。人生はいつも波に作用されている。

例えば、分娩代で陣痛に襲われる妊婦さんは陣痛の波があって、強く痛みが来る時と、落ち着いているときと、痛みの波がある。太陽は、東の地平線から登り始めて南中し、また西の地平線へ向かって沈んでいく。睡眠は浅い眠りから深い眠りを繰り返す。食欲があるときと、ないときと。

仕事もそうじゃないのか?
楽しい時もあれば、つらい時もあるし、活躍するときもあれば、意気消沈するときもある。
仕事に行くのが憂鬱というときは、きっと永遠に続かない。てことは、また、楽しい時も訪れる。今の望んでない時間帯は、仕方ないんだ(大阪弁では、「しゃあないねん」という)。

もう1つ正解が生まれた。
「仕事が憂鬱な人は、「しゃあない」と思えば良い」だ。

「しゃあない」は諦めの言葉のようだが、そうではない。これが終わるための希望の言葉なのだ。私はいつもこの言葉を自分に言って、これまで生きてきた。

どんなに理不尽でも「しゃあない」と思って、負の時間が過ぎ去るのを待ちながら、仕事ではない楽しいことをしよう!

最後に、自問してみた。
このチマチマ書いているブログは仕事なのか?

しゃあないわw

シリコンで学ぶ

熊本県菊陽町やその周辺の変化が著しい。
言うまでもないが、半導体工場の進出によるものだ。

急激な変化は、暮らしの隅々にわたる。
考えただけでも恐ろしいほどある。
住民からしてみれば、別の国に来たほど変わっていくのだ。

1. 計画時点、着工までの変化
2. 着工から竣工までに起こる変化
3. 工場が稼働し始めてからの変化
4. 工場がさらに増えることによる変化

元々この小さな町に、そんな変化に対応する能力はあるのか?
仮にあっても無くても時はどんどん進むのである。

ここで気になることは、元々の住民の気持ちだ。
当然ながら、現状維持バイアスが働くため、この変化をよく思わない人も多く存在する。特に田舎の人は昔から排他的と言われ、新しい人を快く迎える空気が薄い。

逆にWelcomeの人たちも多くいる。この変化によって利益を生む人たちだ。
自分の会社や事業が潤う場合、(もしかしたら従業員は喜んでないかもしれないが)経営者は喜ぶ。
あとは地主。

この地域の多くは農地である。当然売ってくれと、話がどんどん出てくる。地価も上がる。
実は、農地を宅地や工業用地に地目を変えて使用するには、お役所様が黙っていない。
これまで町を支えてきた農産物が減ることを、簡単には許してくれないのであるが…
どうも、法令が書き換えられていると聞いた(裏を取ってないので、信憑性には欠ける情報だが)。
要は、議会により法が変わったと言うのだ。農地も地目を変えて売れる。

先祖代々引き継いできた土地も、「とても高く売れるなら売りたい」と思う気持ちは理解できる。また、建物を建てて貸すこともできる。

喜んでる人は良いとして、喜んでない人に対するケア(変化の説明)が必要だが、これは役所の仕事ではないかと思う。
菊陽町のホームページをのぞいてみた。

菊陽町台湾アウトバウンド支援事業」というものを開始していた。
今や菊陽町の外国人の約40%が台湾出身者だとAIが教えてくれたが、台湾人が増えたことに対する住民の理解を深めるための支援事業らしい。台湾へ旅行するなら1万円/1人 補助するというものだ。
旅行は来年の3月末までが対象だが、予算が無くなり次第終了と書いてある。予算がいくらなのかは書いてない。ここは突っ込んではイケない部分だ。

その他、「広報きくよう」という月刊誌を見てみたが、住民の理解を得ようとする内容も読み取れる。
傍目から見て、頑張っているようだ。がんばれ、菊陽町!

では合志市はどうか?

菊陽町ほどの熱意は感じることはできなかった(これはあくまで相対的な個人評価である)。
合志市はここ数年は、年間約1,000人ずつ人口が増加している。凄い!
菊陽町は5年間トータルで1,000人ほど増えているが、案外増えてないのだ。
人間が少ないからこそ、人の気持ちに寄り添えるのか?
客観的に私なら、温かみを感じた菊陽町に住みたい。
…だが、それぞれの自治体には財源の変化があり、もしかすると企業が入った菊陽町には財源が増え、合志市は財源に乏しいなどの事情があるかもしれない。金がないと何もヤルことが出来ないのかもしれないが…気持ちだけでも表してほしいところだ。遠隔地の私にはやってるのが見えないだけかも知れない。合志市を悪く言うつもりはない。あくまで相対評価である。

中小企業もソレになぞらえて考えてみると良い。
経営者は、従業員が少ないうちは、家族のように、1人1人の気持ちが手に取るようにわかる。
可能な限り、それに寄り添うことで絆が生まれ、結束力は強くなる。
通常はだんだん社員が増え、会社も成長していく。そして、今度新しく入った新入社員の事を、経営者が把握できなくなる。
このとき重要なのは、組織だ。

組織は階層ごとに権限が必要で、立体的になってなければならない。それが無い組織は平面で組織ではない。
そして、組織力を発揮するためにはそれぞれに適正な権限が必要なのだ。

組織を作るまたは組織を機能させる場合、適正な権限階層を作って、そこに人を配置する。
権限がなく信用だけで組織を作った場合、骨のない魚のようで、ふにゃふにゃなのだ。
骨は神経を伝達する役目があるので、脳に信号は届くはずだ。

さて、骨を作るのは誰か?
これを読んだ人に問いたい。

人は

人は「本当のことを言うと怒る」と聞いていたが、それは本当だった

鬼なのかっ?!

会社のビルが建つ前から、そして建ち始めて、完成して引き渡されるまでのプロセスに、初めて関与した。
建築屋でもないのに、なかなかできる経験ではない。ありがたいことだ。
それが本日、一旦終えたのである。

オーナーが居て、設計が居て、建築がいて、設備、電気、警備、カンバン、…多くの業者さんが1つの建物に取り組む。
個々はそれぞれの持ち場で力を発揮すればよいが、全体の流れを束ねる建築屋は大変だ。

しかしその建築屋も、オーナーの意向を第一に優先し、無理難題を言われても全力で取り組んでいる。これだけ聞くと、オーナーがよろしくないように聞こえるが、オーナー自身も希望は言うがビル建設に関わる方々の不利益になるようなことはゴリ押ししない。
昭和だと、「俺が言ってんだから、その通りにしろ!」と誰かが言いそうなイメージもあるが、さすが現代はそんな殿様は居ないのである。
そして、皆さんが皆さんに譲歩しながらも、今日完成したわけだ。

そう言えば、オーナーの意向を100%取り入れない例外が1つある。
それは設計だ。

設計は、その建築物がリアルな自分の作品となるため、ブサイクな状態に仕上がらないように譲らないことが多い。ここで言うブサイクとは、自分の描いたイメージから外れることである。譲らないと言っても、結果がそうなるように上手に導くだけで、断固として譲らない姿勢ではない。
オーナーの意匠感覚を、自分の意匠感覚に染めていく技は、素晴らしい。
一種の洗脳か、或いは魔法だ。
更に素晴らしいことは、予算内に収めなければならないため、抜くことろは抜き、譲れないところは譲らないことが実践できていることだ。
並々ならぬ努力と、センスが必要だ。
美しい、またはカッコいい建物をデザインするだけが設計ではないという事だ。

これまでの流れを思い返してみると、やはり設計は人一倍大変なのだ。
設計自体を自分たちが行うから、設計の段階で法の範囲に収まっているかの確認が絶えずある。
私も同行したが、消防本部に時間を取っていただき、諸々確認しに行ったこともある。
何をどう設計するにしても、いちいち、法の枠があるのだ。
そして出来上がった図面に対して皆さんが取り組むだけなので、設計が済めば、半分は済んだと言っても良いのではないかと思われるほどだ。
だから設計は素晴らしい技術能力の集積であって、設計が無くては建物は立たない。ビルを建設する業者たちの中で一番費用を請求してよいと思った。
私も次ぎ生まれ変われば、そのときは設計士になりたいとも思う。

ビルの建設は、会社の経営にも似ている。
事業計画があり、予算があり、方針があってみんなが活動し、途中で状態をレビューし、修正し、そしてゴールする。

それぞれ重要な役割だが、この話になぞらえると、やはり設計に該当する事業計画は大変重要だ。
起業したての頃、感覚で経営する時代があったかもしれないが、いつしか会社は計画がないと経営が立ち行かなくなる。順調に大きくなっていればの話である。
事業計画は、ビジョンではない。実現可能な成長を練りこんだ実施計画だ。

この事業計画がどれほど緻密’(ちみつ)なのか、曖昧なのかで、企業の成長度合いは大きく変わると思う。企業の成長とは、売り上げや利益だけの話ではない。人の成長も含んでいる。
会社が順調に成長していれば、人も辞めない。人が辞めない会社は健康だ。

厚生労働省に、令和5年の雇用動向調査結果が出ている。この中(概況全体版のPDF参照)に離職率の計算方法が出ているので、自社の離職率を計算してみると良い。
全国と比較して、自社の離職率はどうなのか?
こういうことを定点観測しておくことも「経営」だ。

先ほど建築設計が素晴らし話をしたが、そういえば現場でこんなことがあった。

私:「これ、どうやって施工するんですか?できるんですか??不可能ですよね??設計はどのような施工方法を考えているんでしょう???」

職人さん:「設計は、そんなこと考えてくれちゃいないよ。きっと、『それを考えて施工するのがプロのお前たちだろ!』って、言うんだよ(笑)」

…設計は、鬼だ。

終わりなき旅

「俺、体育会系だから(笑)」

この言葉を自ら発している方は注意されたい。
この言葉は、このように言っているのと等しい
・私は上下関係に厳しい
・私は根性論者である
・私はエゴイストである

体育会系の方の存在を否定ないが、もう笑うしかない。
これが組織において許容される時代は終わっている。
まさにパワハラと呼ばれることに近い。

今日現在は、パリオリンピックが終わり、まもなくパラリンピックだ。
オリンピアンの方々は、当然ながらアスリートである。
だが、アスリートの方々を体育会系と呼ぶと失礼になる可能性がある。
自ら言っている人にはそう呼んでいいかもしれないが、現代には少数派ではなかろうか…

さて。
経営者は自ら判断しなければならない立場。
上司は、部下に決めてもらって最後のハンコだけ押すだけの、そんなラクな仕事ではない。
組織のTop、部署のTopなど、組織を束ねて行く立場の人は、判断基準は自分自身であることが多い。
ここで重要なのは、判断基準は自分であって当然良いのだが、結果を手にするまでのプロセスが間違っている。

人はそれぞれ個性があり、上司も部下も個性がある。
怒りっぽい上司、怒りっぽい部下、マイペースな上司、マイペースな部下。
自分の判断基準にハマってないと、上司が怒り出すとか、部下が怒り出すとか。
この個性の組み合わせはとても多いが、結果のカギを握っているのは上に立つ者に間違いない。
自分の判断基準をクリアさせるために、部下をどう動かすのかは怒号ではない。サムライ社会はもう通用しないのだ。

ではどうすれば良いのか?
それは、「コーチング」と呼ばれるものだ。

コーチングは社会で認知された指導技術で、多くの方がその存在を知っているが、実践できる人は少ない(私の知る限り、限りなく少ない)。
そう、コーチングを教わったにも関わらず、実践できないのである。
なぜそうなのか?の答えは一旦置いといて、コーチングスキルを身に着ければ、「私は体育会系である」などど、部下に脅しをかけなくて良いのである。

福岡で私が知っている、コーチングのトレーニングができるところは、「トイカケル」という会社だ。あ、そうか!今は福岡とか近いとか遠いとか、あまり関係ない時代だった。。w

ここの江口さん(代表取締役でトレーナー)、とても分かり易くこのスキルを身につけさせてくれるはずだが、多くの人が「コーチングを教わったにも関わらず、実践できない」事実は存在するのだ。
この答えは、是非ともコーチングを受講して江口社長に聞いてみてほしい。

コーチングは、家庭でも学校でも通用するらしい。
わが子に、教え子に、そしてダメな亭主にそれを試してみてはどうか?(;^ω^)
いやな顔をしたり、無視したり、叱ったり怒鳴ったりするたびに、理想が岸から離れていく。
望んだ結果を手にするためには、部下ではなく、努力するのは自分なのである。

そして努力をやめた時、あなたの旅は終わる。

慣れ

今日は、暑さが少しマシやな。。。
気温は34℃
どうなってるの?感覚 (-_-メ)

愛の夢

バングラデシュの首相が亡命した。

亡命した首相のハシナさん、「絶対的な最高権力者」と紙面ではと書かれていることもあるように、あまり良くない印象がその文字から受け取れる。
反政府運動が抑えきれなくなるほど膨れ上がるからには、それなりのワケがある。。。

そういえば、昨夜見た映画は、「マハラージ
カテゴリーが違えど、似たような話だ。

この話は、宗教上の絶対権力者(マハラージ)が地に堕ちるまで戦ったジャーナリストの話で、事実に基づいて制作されたとされている。

国家、政府、教会、警察、学校、企業、あるいは家族。
組織と呼ばれるところに、必ずこのような話がある。
そして、間違いなく言えることは、そこに愛はない。
大一真央さんに一度聞いてもらわねばならない。

頂点に立つものは、立った時からが本当の価値を生み出すはずなのに、逆へ逆へと進んでいく。
頭が良いのか悪いのかわからないが、人というものは、そうなる傾向がある。

私はこれまで生きてきた中で、何か組織の頂点に立っている人の中に、私が勝手に引いた目線より上にいる御仁は、ほんの一握り。あとは良いことより悪いことのほうがかなり大きく上回っている方ばかりで、「普通の人」だ。

自分の行いが「良くない、やっちゃいけない、悪いこと、魅力が無くなる」など、それに気付いていない場合と、気付いているが「大義の犠牲」と正当化する場合がある。
実は気付いてないというのは、あまりない。これに気付かないほどの人は、何かの頂点には立っていない。
ということは、ほとんどが確信犯という事になる。

どんなに実直でも、どんなに崇高でも、どんなに賢くても、権力の頂上に居れば、それを乱用する。
どこかの会社の社長が、ホントか嘘か、こんなことをいつも言っていた。

「船長は、全ての権限がある。しかしその船長が狂ったとき、副船長だけが船長を解任する権限がある」

正確な言葉尻は覚えてないが、Topが誤った判断をした場合に、それを止める仕組みが船にはあるということらしい。会社にもそれが必要で、複数の取締役を置いて、それに努めているようなことを言われていた…

が、実際には効力は無いのである。
オーナーでも株主でもない人に、何の権限があるというのだw
そして、会社は結構ムチャクチャになってしまった。

客観的に見ると、やはりそこに愛はあるのか?という感じがしてならない。
宗教と関係なくとも、精神論のそれは真理に近い気がする。

何かの組織の頂に立っている御仁、
「そこに愛はあるんか?あーるーんーかー?」(^^;)

消せない染み

周りにフリクション(消せるボールペン)を使っている人が増えてきた。
私も購入して使ってみたが…

実際に書き間違えた時、消せばよいのにグジュグジュと塗りつぶす癖が取れない悲しさ
(-_-;)

伝わらない善意

30代のころ、諸事情のためとても貧乏していた。
とにかく金がない。月末になるとその日食べる米もない。。。

今とは違い、会社員のダブルワークはタブーだったが、こっそり自営業を始めた。

「パソコン教えます」

地域のコミュニティー紙に、2,000円支払って広告を出した。
すると問い合わせがあり、「パソコンを買い替えたいが、相談に乗ってほしい」
電話の主は、60代ぐらいのご婦人。
家が近くだったので、自転車に乗って訪問させていただいた。

市営か県営の団地の1階に住んでおられて、ご婦人は車椅子の一人暮らしだった。
家族はいないが、姪が市内に住んでいると言われた。

自作の名刺をお渡しすると、狭い台所のダイニングテーブルに案内された。
椅子をすすめられたので座って話を聞くと、古いノートパソコンを持ってこられて、
「足が悪いので、趣味のためにパソコンを活用したいのです。」
「ずいぶん前に買ったが、これまではあまり使用せず、長く放置していました。」
「いざ使おうとしたら動作がとても遅く、壊れているんじゃないのかと思うほどです。」
「新しいパソコンは動作も早いようだし、買い替えたいのですが意見を聞かせてほしい。」

と言う。
この頃は、ハードもソフトも技術進歩が目覚ましい時で、Windous系のPCは数年経過するとレジストリが膨れ上がってハードの処理が追い付かなくなり、とても動作が遅くなる。
少し見てみると、電源を入れて立ち上がるまでに、風呂に入って出てこれそうなほど遅い。

私は、買い替えるほうが良いと言う提案をした。
そして、どうやってパソコンを買いに行かれますか?と聞くと、タクシーやバスに乗って梅田のヨドバソカメラへ行くと言われた。

「では、パソコンを購入したら、またご連絡ください。それから色々覚えていきましょう。」
と、一旦は言ったものの、この足の悪いご婦人が車椅子で一人でパソコン売り場まで行って、店員の説明を受けながら適切な判断ができるのか?販売員の言われるままに使いもしない機能盛りだくさんの高価なPCを買わされるのではないか?と、心配がよぎって、「私も一緒に行かせていただきましょうか?」と提案したら、大変恐縮されたが「助かります」と喜んでいただき、日時を決めてその日は家に帰った。

そしてその翌日、携帯が鳴った。

電話口のご婦人から言われた言葉は、
「あの、もう、結構です。もう来ないでください。」

「どうかされたんですか?」

姪御さんに電話したら、怪しすぎるって猛反対されたらしい。
私は家が近所で住所も電話番号も本名も書いた名刺を渡したが、客観的に、そんな親切な人は怪しすぎる。そうだ、ここは大阪だった。
このことを瞬時に頭の中で理解できたために、
「それはとても残念です。何かお力になれることがありましたら、またご連絡ください」

と言って、電話を切った。
涙が出てきた。
今思い出しても涙が出る。

お金が必要だから始めたことだったけど、実際は困った人を目の当たりにすると、金のためではなくなる。しかし、善意は悪意として疑われる。
せめてもの救いは、姪御さんと私が会った後に言われたのなら、私は悪い奴に見える証明という事になるが、そうではない。セーフだ!
人は会って話をすると、誤解は少ないと思われる。
※凄いペテン師は、会って人を惑わす。私はこういう人を知っているので、実際にいる。気を付けて欲しい。

今の私は独立して、最初の問い合わせはメールで頂きますが、遠くても必ずお会いして話をしたいと思います。