近年テレビを見なくなったが、寝る前に端末で映画やドラマをよく見る。
世界中の人が数多のストーリーを考えて世に放出し続けているが、よくそんなこと考えつくなぁと思う事がある。
今見ているドラマはNetflixの「三体」。これもその一つだ。
私は「一事が万事」という慣用句を次のような意味として認識している。
「1つの事ができれば、同じようなほかの事もできる。1つの事ができないと、同じようなほかの事も出来ない」
極端な捉え方かもしれないが、私の経験則からそうなっている。
「三体」を作った原作者は、おそらくほかの事の創造性にも才能があるはずだと思う。
会社で働く人たちの中にも、それぞれ得手不得手がある。
それに向いてない人は同じような事の仕事に向いてないし、その逆も然り。
手先が器用な女性がいた(女性は器用な人が多いが)。
電卓を叩かせても、正確で速い。
キーボードの入力スピードも速いしタイプミスも少ない。
ゲームのコントローラーさばきも上手だ。
この女性にピアノを弾かせてみた。
習ったことが無いので、とても弾けたもんじゃない。
しかしきっと、習わせるとそこそこ弾きこなすに違いない。
この予測は「一事が万事」から想像していることだ。
人のいい所を見つけると、その先のその人の人生は明るくなったことが保証されるような話だ。
そして、それを叶わせることができるのが、「親」である。
最近の親はどうだ。
残念ながら、なんだか残念な感じがしているのは私だけか?
子供の良いところを伸ばして行ってほしい。
話は変わるが、映画を見ているだけなのに、私は心を動かされる。
例えば、悪人であれ善人であれ、人が悲しんで涙を流すシーンで、私はその人の気持ちを汲んで涙を流す。
幸せなシーンでは「あ~よかったねぇ」と同じように幸せになる。人が楽しくしていると楽しい。
そのとき客観的には、寝っ転がって映像を見ているオッサンが泣いたり喜んだりしているので、可能な限り誰にも見られたくない。
人はそもそも、人の気持ちに寄り添う事ができる。
悲しんでいる人を見ると、幸せな気持ちになれるはずがない。
困っている人がいれば、助けたくなるものだと思うが、果たして違うのか?!
世界のどこかの戦争の首謀者や絶対権力者と呼ばれる人たちは、いったいどんな環境で育ったと言うのか??
どうすれば、平気で人を殺すことができるのか?
どんなヒドイ親に育てられたと言うのか?
いや、きっと地獄のような幼少期を過ごしたわけではない。
親が、正しいことをちゃんと教えなかっただけだと思う。
話が長くなるが、年末のクリスマスの日にこんなことがあった。
クリスマスケーキを予約してなかったので、シャトレーゼという洋菓子店に行ってみた。
そりゃもう店内はごった返していたが、入り口から床に「ケーキ購入の方」と「ケーキ予約受け取りの方」というそれぞれのテープが貼ってあったので、「ケーキ購入」に沿って進んだ。
そして、順番がすぐそこまで来ているところで、私の前のご婦人が、荷物を持ち直すために床に手荷物を置いた。そしてそのとき、そのおばさんの前が1メートルほど空いたところへ、横から来た40歳くらいのおばさんがスッとそこへ割り込んだので、私はトントンと背中を叩いて、「あの、並んでますけど」と言った。すると、
「そっちは受け取り側じゃないんですかっ!」となぜかキレ気味に言うので、「いいえ、違いますよ」と言いながら、私の足下の床の線を指さした。
すると、そのおばさんはもっとキレて、「じゃあ、ココに並んでください!!!」と声高に自分の足元を指さした。
もう、ブチ切れて血管切れそうになったが、そのおばさんは小学4年生ぐらいの女の子を連れていたので、大勢の前で母親を𠮟りつけるわけにもいかず、黙ってそのおばさんの位置へ移動した。割り込みおばさんは、その後ろへ移動した。
こんなルールも守らない自分本位の親の姿を子供に見せて、子供がまともに育つはずがない。
車を運転しても、誰一人割り込ませない嫌な感じの女性ドライバーが完成するかもしれない。
親は責任重大だ。
子供から見られているから身をただすというのもいかがなものかと思うが(笑